中国ってずっと洛陽や長安が都だったのにどうして北京が都になりはじめたんでしょうか?中原に戻ろうという考えはなかったんでしょうか?
中国ってずっと洛陽や長安が都だったのにどうして北京が都になりはじめたんでしょうか?中原に戻ろうという考えはなかったんでしょうか?... - Yahoo!知恵袋中国ってずっと洛陽や長安が都だったのにどうして北京が都になりはじめたんでしょうか?中原に戻ろうという考えはなかったんでしょうか? >中国ってずっと洛陽や長安が都洛陽と長安を中心としていたのは唐代までです。この二都市は、歴史も古く、それぞれ黄河流域の重要拠点です。洛陽は中原(黄河中流域)の中心で、伝統ある都市でした。洛陽...detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
>中国ってずっと洛陽や長安が都
洛陽と長安を中心としていたのは唐代までです。
この二都市は、歴史も古く、それぞれ黄河流域の重要拠点です。
洛陽は中原(黄河中流域)の中心で、
伝統ある都市でした。
洛陽を首都とした王朝は、中華文明の正統を受け継いでいるぞ、
という姿勢を示していたわけなんです。
長安は渭水盆地(関中とも呼びます)の中心です。
関中は四方を自然の要害に囲まれ、
防御に適した土地でした。
また、広大な灌漑農地があり、食料生産力も有していました。
洛陽と長安は、魏晋南北朝時代の分裂期においても、
各勢力の多くが拠点(首都)としました。
唐においても、首都は長安で、洛陽は副都(サブの首都)と扱われていたほどです。
この伝統を覆したのは、唐を滅ぼした後梁の朱全忠です。
朱全忠が首都とした開封は、宋代まで受け継がれました。
開封は、それまでの伝統ある都市とは違い、
唐代に急激に発展した都市です。
開封は大運河と黄河の結節点に位置する物流の拠点となる
経済都市でした。
朱全忠の発想は、伝統ある都市や防御に適した都市ではなく、
経済・物流の中心となる都市を首都と選んだわけです。
この経済を中心と考える時代が次の北宋の発展を支えたのです。
北宋が南遷し、南宋は臨安(杭州)を首都としました。
臨安は臨時の首都という意味合いがありますから、
開封こそが本当の首都と思っていたわけです。
一方、北京はもともと中国の北辺の防衛拠点という役割の都市でした。
宋と相対した遼や金は、この北京を含む
漢人の居住地を支配することとなり、
複数の首都を置く中の一つの首都として扱いました。
遼では、南京析津府と呼ばれていましたし、
金では、中都大興府(燕京)と呼ばれていました。
この流れを引き継ぎ、モンゴルのクビライは
この地に大都を建設しました。
大都は元朝の首都ですが、
モンゴル的には冬の首都になります。
彼らは帝国を建設し都市に居住するようになってからも、
遊牧生活の伝統を捨てず、冬は越冬地に、
夏は避暑地に移動を繰り返しました。
元の夏の首都は上都になります。
元における大都は、モンゴル高原から中国本土を合わせた
広大な領土の中では中心に位置しており、
全土の統治には合理的な位置だったといえるでしょう。
この元を破って、モンゴル高原に追い払った明は
最初は南京を首都としました。
このころになると、農業面・経済面とあらゆる面で
長江流域、つまり中国南部が中国の中心となっていました。
明を建設した朱元璋たちも長江下流の人たちで、
首都を南京としたのは自然な流れでした。
ところが、明の第二代建文帝を靖難の変で破った
永楽帝が北平に首都を移してしまいます。
この北平が首都になったことで、北の都という意味の
北京と呼ばれるようになりました。
この北平はもともと永楽帝の拠点でした。
明は追い払ったモンゴルと長城を挟んで対立を続けていました。
その最前線の軍事拠点が北平で、
洪武帝(朱元璋)は最も軍事能力のある息子に
この北平を守らせていました。
それが後の永楽帝なのです。
永楽帝は帝位を簒奪した後、南京に移り住みませんでした。
南京は永楽帝にとって敵地でした。
また、住み慣れた北平を首都としたほうが
永楽帝には都合が良い面もありました。
永楽帝の死後、一度は南京に遷都しようという案もありましたが、
結局それは廃案となり、そのまま北京が首都であり続けました。
明の首都の北京が極端に北方の国境付近に偏っているのは、
立地的な必然性ではなく、永楽帝がイレギュラーに即位した結果なのです。
清朝は明を受け継ぐという建前がありましたから、
北京と紫禁城をそのまま受け継ぎました。
また、清は元と同じく、モンゴル高原から中国本土を支配しており、
北京は国境付近というわけでなく、
位置的な合理性はありました。
清は元と同じく、モンゴル高原から中国本土を支配しており、
なに言ってんだコイツ?
当時のモンゴル通らな中国行けないからそこらは支配されてたやろ
けんもにゃんは猫だから3行以上の文章は読めないにゃ!
最初は南京を首都としました。
しかし、実力者の袁世凱が実権を握り、
彼のなわばりであった北京に政府をかまえました。
ということで、中華民国の前半は北京が首都でした。
その後、蒋介石が南京国民政府を誕生させ、
北伐を成功させたことによって、やっと南京が首都に戻ります。
この南京は、第二次大戦後の1949年まで首都です。
そして、現在の中華人民共和国が1949年に建国を宣言し
首都としたのが北京になります。
毛沢東たちがなぜ北京を首都にしたのかは、
なかなか難しい問題です。
分かりやすい理由が見出しにくいのです。
いや、本当に知りたいのは最後の部分だろ
難しいで終わらせるなよ
北京は無血開城されてたからじゃね?
当時の映像見てもなんの被害もなさそうだったし
ちかくの街を劉邦が都にした
ちなんで洛をつけている京都が
馬鹿みたいじゃないか
即時の変更を求める!
平安京ができた頃は中国趣味で左京を洛陽、右京を長安と呼んでいて
右京が早く廃れて後に都市の中核となった左京部分が残ったので名残りで京都に入るのを上洛という
マイナーな場所だよな
清朝の武力の基礎はそのへんにあるわけだし
簡潔に説明せい
・南京は国民政府の牙城みたいなとイメージだからいや
・北京は3つの王朝が500年以上首都だったんだから「中国統一したった」というイメージ
・旧満州は工業化が進んでいたんで近い方がええ
実際、ハルビンとか西安や南京でええやんという意見もあったけど
昔は燕の都の地方都市に過ぎなかったが
隋が高句麗攻めのために大運河を建設し
交通の便が良くなり物質の集積地として機能
北方遊牧民のキタイの遼や女真族の金が副都を置いてさらに発展してたのを
モンゴルのクビライが大都として今の北京を首都にした
時代が経つにつれ沿岸部の都市の方が発展しやすくなっただけのような
中国のように王朝の変遷が多かった国だと当時の大都市が首都になるわけで
北方遊牧民文化の香りを強く感じる街
北方遊牧民と中原農耕民が出会う境界だからこそ
北京は発展した
だからギリギリ砂漠に飲み込まれない






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