【奈良】桜井市纒向学研究センター所長「卑弥呼は倭国の女王」「卑弥呼は纒向に都を置いた」「邪馬台国論争に区切りを」

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1 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:23:47.30 ID:Z1m/E8Bc9

古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。

(省略)

卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。この地こそ倭国の大王都とみる。

平成21年に発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、飛鳥時代の宮殿を思わせる配置だった。東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土。シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市だった。

「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、倭国の女王。卑弥呼のいた場所が邪馬台国。これを間違ってはいけない」と強調する。

纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳にも、いち早く着目した。県立橿原考古学研究所に就職した昭和51年には纒向石塚古墳(墳丘長96メートル)を発掘。後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれ、「纒向型前方後円墳」を提唱した。

この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上るという。「ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、各地に広がった。地方との政治的関係がこの段階で形成された」とみる。

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卑弥呼は、北部九州や吉備などの勢力が話し合いで擁立し、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に都を置いた-。邪馬台国畿内説ではあっても〝多数派〟と大きく異なる見解を示した。

魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。

この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。

しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。魏志倭人伝の「倭国乱」について、中国の別の歴史書に「歴年主(あるじ)無し」と記された点に着目する。「中国から見て、倭国の王が定まらず外交窓口がない状態を『乱』と表現した」とみる。

遺跡の状況がそれを裏付けるという。「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。

この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。

新著を通じて「混沌(こんとん)とした状況を打破するため、北部九州や吉備などの勢力が話し合って卑弥呼を擁立。王都は、突出した既存勢力がいない纒向に置いた」と説く。

(省略)

「卑弥呼の時代は3世紀の昔の話と思ってほしくない」とも語る。卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは景初3(239)年。親魏倭王の称号と金印が授けられ、破格の待遇を受けた。

この年は、朝鮮半島北部一帯の勢力「公孫(こうそん)氏」が魏に滅ぼされた翌年にあたる。「卑弥呼は激動する東アジア情勢をいち早くキャッチし、魏の脅威を感じて使者を送った」と解説。さらに当時の大陸は魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三国志の時代。「魏にとって、ライバルの呉を牽制(けんせい)する意味で倭国との関係を必要とした」とみる。

(省略)

■てらさわ・かおる 昭和25年、東京都生まれ。同志社大文学部を卒業し、千葉市教育委員会を経て51年に奈良県立橿原考古学研究所へ。調査研究部長などを歴任。平成24年4月に開設された桜井市纒向学研究センター所長。平成14年に第15回濱田青陵賞受賞。主な著書に『弥生時代政治史研究』(吉川弘文館)、『弥生国家論 国家はこうして生まれた』(敬文舎)など。

7/9(日) 19:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/5d629aca32937916c57fe217ef6e77b9f5ccafaf

2 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:26:24.32 ID:eXd3PhvF0
だから中国人が言った通りの場所に決まってるだろ
日本じゃないどっかの島だよ
3 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:28:25.40 ID:YqOhNurs0
以上、個人の妄想でした。
4 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:28:55.18 ID:iDn3iSbF0
きょならが何言ってんの?
5 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:29:27.79 ID:Rq1vXCNp0
>寺沢薫

またこいつか マキムクキチ◯イ
邪馬台国は九州に決まってんだろ

6 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:34:12.89 ID:CFRSHHCa0
まずは宮内庁が全古墳の発掘調査を認めるべき。
7 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:34:13.07 ID:F2WQX5dj0
日本書紀か何かじゃ卑弥呼を九州の女酋とかなんとか一書に曰ってなかったか?
8 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:39:27.50 ID:wLoexjVD0
魏志倭人伝には卑弥呼の国は倭国とは何処にも書かれていないんだよね
卑弥呼の国は常に女王国と慎重な表現を使われている
倭国王帥升との関係を示す証を卑弥呼らは持ってなかったのかもな

むしろ男王の時代の倭国の旧体制に対する叛乱の結果誕生したのが卑弥呼の女王国という可能性もある
卑弥呼亡き後国が乱れ、再び旧体制の枠組みに取り込まれたんじゃないか

9 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:39:28.62 ID:fo4leenr0
まるで朝鮮人みたいだな
10 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:44:03.92 ID:zGaIWQPv0
つか寺澤さんってもう72歳なんだ
そっちに驚いた
11 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:45:16.73 ID:6rh4RPKQ0
卑弥呼は一国のシャーマンで大和政権しく器ではない
九州の女帝なめんなよ
12 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:47:20.89 ID:zGaIWQPv0
しかし5ちゃんで畿内説のスレは珍しいなw
まいど九州説の狂った言説ばかりなのに
13 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:47:26.78 ID:CFRSHHCa0
隋の歴史書には邪馬台国は大和のことだと書いてある。
14 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:49:47.11 ID:8JuRqaA30
主観で語る学者は信用しない
15 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:51:47.67 ID:zGaIWQPv0
寺澤氏の説は概ね同意するけど纏向は定住の痕跡が全くないからな
都だという主張は同意しかねる
大型宮殿は祭祀の為の仮宮的な場所だと思う
16 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:53:02.92 ID:7Jc38XFy0
はいはい、またプロレスね
17 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/12(水) 23:59:47.86 ID:5N7yeA6z0
弥生時代末期で最大の古墳と最大の建築物跡があり近畿周辺の土器が集まっている唯一の場所
それが巻向です
21 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:09:55.22 ID:PJLN0Mtf0
>>17
でも定住の痕跡が皆無だからな
大型の宮殿も他に周りになんにもなくて王城と言うには不自然
ここは祭祀の場だと思う
19 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:00:29.69 ID:6krPytGN0
倭国大乱は181年のニュージーランドのタウポ破局噴火が原因だよ
噴火の規模的に世界的な大飢饉が起こったのは間違いないんだが
破局噴火をなぜ考慮しないの?
23 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:14:37.70 ID:5g9gBpP20
また観光客目当ての歴史捏造か。
畿内説と九州説、結局双方が長年一歩も譲らぬ理由は
邪馬台国ブームで地元に入る観光収入狙いと言う浅ましいだけの論争。
24 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:22:32.37 ID:PJLN0Mtf0
纏向の関連を考えるなら吉備よりむしろ滋賀の伊勢遺跡とかの方がより原型感が強い
古墳については出雲や播磨の方が原型的と言えるのでは
25 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:22:35.17 ID:Quxb0LxW0
吉野ケ里の期待はずれな石棺みたら纒向で間違いないと思った
30 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:35:31.62 ID:PJLN0Mtf0
>>25
あれはむしろ邪馬台国どうのとかいうバカな話と関係なく見るべきもの
大変興味深いが邪馬台国しか興味ない人にはそういう話にしか見えないんだろう
もったいない
26 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:26:51.81 ID:4yAtPYxk0
奈良に巨大な勢力があったとしても
それが邪馬台国とは限らない
27 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:28:29.02 ID:rpZr4cmD0
中国の三国時代の記録は色々残っているのに同時代の日本の記録は皆無
文明後進国の悲哀だな
28 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:31:41.37 ID:S0W+uYKR0
卑弥呼は古墳時代でなく弥生時代の女王だから前方後円墳に眠ってるわけない
29 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:34:29.65 ID:wtIVi22j0
もし邪馬台国が九州なら都に行くのに、水行20日とか水行10日なんて必要ないだろ。
陸地だけで歩いて行けるだろ。
31 名前:匿名のゴリラ 投稿日時:2023/07/13(木) 00:35:55.42 ID:EM/tRHMF0
常識的に考えて邪馬台国は九州であり、大和の天皇とは全く無関係だ。
九州の一部落の酋長が日本全体を治めてるかのように僭称して朝貢したのが邪馬台国。
そのころ、大和にはシナとは全く無縁の皇統が存在していた。

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